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黒豆屋マスターBLOG

黒豆屋の豆匠たちが黒豆の“美味しい話”をこっそり教えます。 黒豆の炊き方の基本から“まめ”知識などなど、雑学のタネがいっぱい。

2009.6.16 update

上杉謙信の糸引納豆

納豆は中国大陸から奈良時代に禅僧と共に伝来したのが原型で、今のようなねばねば納豆ではなく"塩辛納豆"です。
宮内省の大膳職でつくられていて「鼓」(くき)と呼ばれていました。室町時代初期に書かれた「庭訓往来」に、精進の菜として"納豆"の名前が初めて出てきます。当時は煮た大豆を室の中に敷いたむしろの上に広げ麹菌を増やし、それを塩水につけ込んで三、四ヶ月発酵させ、乾燥して作ったそうで、京都の大徳寺や天龍寺でも作られ寺納豆、唐納豆、味噌納豆等と呼ばれたそうです。
さて、関東で食べられる"糸引納豆"は日本独自の食品ですが、NHK大河ドラマ「天地人」の舞台となっている戦国時代、上杉謙信が戦陣食として煮豆をわらづとに入れて保存したところ、わらの納豆菌から発酵して糸引納豆になったとの言い伝えがありますが、どうでしょうか。
江戸中期には、納豆は庶民の食卓には欠かせない一品となっています。「鳥の啼かぬ日はあれど、納豆売の来ぬ日はなし」と書かれています。

2009.2.26 update

秘密を漏らす豆

古代ギリシアでは、民主的に物事を決めるいろいろな方法があり、簡単に賛否を決めるような場合「豆」を使っていたそうです。「黒豆」と「白豆」を投票壺に入れて投票するのです。黒豆は反対だったのでしょうか。

おもしろいのは、壺の投票結果を見るには限られた役員だけで、結果だけが公表されるという仕組みです。
ときに壺がひっくりかえって、票数の秘密が漏れてしまうことがあり、そこから「豆をこぼす」は、「秘密を漏らす」という意味に使われたそうです。故意か過失かは、壺をひっくり返した本人だけが知る秘密です。

2008.11.13 update

江戸の黒豆考

江戸時代の大豆を和名・萬米(まめ)と称したそうです。
正徳3(1713)年に書かれた「和漢三才図会」によると、黒豆は「黒豆ハ薬ニは煎ルベシ。或ハ炒食シ、或ハ醤油ヲ和シテ煮ル。座禅豆と名ヅク」とあります。煮しめた黒大豆を「座禅豆」と称したとありますが、禅寺で使われる黒い座禅座布団に似ていたからでしょうか。
事実、禅僧も黒大豆の煮豆を食べていたそうです。古くから煮豆は酒の肴として食べられていて、1800年代には正月のお節に欠かせない料理となり、江戸中期には店頭で黒豆の煮豆が人形町で売り出されたのが元祖で、芝の玉木屋が座禅豆の煮豆で著名だったそうです。

2008.11.13 update

豆撒と節分

節分の宵"福は内、鬼は外"と豆撒きの声がします。
豆は古代人の作物で神話にも登場しますが、宮中、神社、寺院の"追儺"の儀として行われていますが、古くは中国から伝わったそうです。なぜ"まめ"かと言いますと、「魔を滅する」からだそうですが、豆に打たれる鬼は見えない怖いもので禍の元だったのです。この想像上の鬼は、頭に角があり虎の皮のパンツが定番ですが、その出所は方位・ 時刻を指す「丑・寅」で真夜の時刻、牛の角に虎の皮のパンツをはいた妖怪が暗闇の中に潜むと想像したのでしょう。この日を境に冬と春の季節を分ける節替りが節分と呼ばれ邪霊災厄を払う行事が加わりました。歳の数だけ豆を食べるのも豆が常に身体に良い健康食材だった事を古人が伝えているのです。

2008.11.13 update

縄文人も豆づくり

日本人の豆好きは祖先のDNAでしょうか、定説では豆の栽培は弥生時代からと言われてきましが、実はそれよりも千年以上古い縄文後期の約3600年前頃から始まったことがわかってきました。長崎県の大野原遺跡や熊本県の三万田遺跡から出土した土器に、豆の種子が粘土について焼かれた痕跡発見され、熊本大学埋蔵文化財調査室の小畑先生の調べでわかったそうです。
縄文時代と言えば狩猟と採集のイメージがありますが、近年の研究で九州では豆に加え大麦や稲の栽培が始まっていた可能性があると指摘しています。以外と豊かな食生活だったようですから、豆好きは縄文人のDNAを今に引きついでいるのかも知れませんね。